2006年 12月 01日
治す・治る
|
数年ぶりにドラマを見てます。Dr.コトー。ありえなーいとかベタ過ぎる!とか何だかんだいいながらも結構楽しんでる。
今日は、コトーが末期癌で余命3ヶ月と宣告した女性が、自宅で抗がん治療をしてたら転移が消えて、原発巣を手術して完治する、という話でした。
周囲の人はみんなめでたしめでたし、大喜びなんだけど、コトーひとりが落ち込む。結果として間違いだった死の宣告をしてしまったことへの罪悪感に苦しみ、医学の常識ではありえない現象を目の前に何を信じていいのかわからなくなった、とつぶやく。
病気になる/病気が治る、という現象に関してはまだまだ本当に不思議なことがいっぱいあると思う。
私は最近、だんだん、病気が憎むべき敵だとばかりは思わなくなってきた。そして何が何でも治さねば、とも思わなくなってきた。
病気は確かに苦しくて、災難だったり試練だったり罰なのかもしれない。でも視点を変えると、人生をより「味わう」ための舞台装置、むしろギフト?という面も、確かにある。
前出の女性が言った台詞に「私は病気になって幸せだったかもしれない。毎日がこんなに輝いてたことはない」というのがあったけれど、これは末期癌から奇跡的に生還を遂げた人(奇跡的というわりには結構あるのが笑える)に共通する心理らしい。
病気という出来事の光と影、両面を味わいきったとき、病気はその役割を終えて去っていく(=治る)、そういうパターンが確かに存在する。病気と闘う、というのとはちょっと違う。
因果関係なく病気は起こるべくして起こり、治るべくして治る。治る病気は何をしても(しなくても)治るし、治らない病気は手を尽くしても治らない。そこに治療者はいったいどう関わってゆけばいいんだろう。コトーの混乱は今の医学ではタブーだ。
ほんの1年前、全ての病気を治せる魔法の治療を求めて西洋医学以外の世界に足を突っ込んだ。けれど今は、どんな方法をもってしても全ての病気は治せないし、それでいいと思う。
私にできることは、苦痛とか、悲しみとか、怒りとか、いろんな感情を味わう動物と人にただ、あーとかうーとかいいながら、一緒にそこを伴走することだけかもしれない。医療というウソも方便を使いながら。
そうして散々病気の負の面を味わっていくうちに、しょうがないか、と病気を受け入れるようになる人がいる。この病気のおかげで、と感謝の気持ちすら持つようになる人もいる。そこまできたらもはや治癒は目的ではなく、その結果として自然と生じるのであればそれでいいし、生じなかったとしてもそれは敗北ではないと思う。
病気は味わうもの。そう心のどこかで思いながら、目の前の病気をどうにかしようと格闘する毎日も、悪くはない、かな?
by taira5577
| 2006-12-01 00:13
| 獣医のしごと